日本語の「ンゴ」の部分

 

このブログで一番の盛り上がりはタイトルです。

 

 

日本語を美しいと感じる日本人は多い。でもそれって、当たり前じゃないですか?

日本語しか分からないんだから。

もちろん洋楽が好きな人もいるし、日本語のアニメが好きな外国人もいる。それぞれ良さがある。それなのに「日本語は美しい」と言ってしまうのは「=母国語への理解度」が段違いに高いからに他ならない。

アメリカ人なら英語、中国人なら中国語、ナウル人ならナウル語を最も美しいと思うに違いない。それとも学会で「最も美しい言語ランキング」発表されてる? 最も美しい、なんてのは、結局のところ主観でしかないのだ。

 

日本語は書き言葉に優れている。膨大な量のひらがなやカタカナ、漢字を使い分けることによって、文字だけで感情の機微や詳細な情報を伝える事が出来る。そのため物語を紡いだり、正確な記録を残すのにこれほど適した言語はないだろう。

反対に、英語は話し言葉に優れていると思う。少ないアルファベットで最大限伝わるよう、アクセントによって意味が変わったり、語尾のイントネーションや身振り手振り、表情まで全てが情報として相手へと伝わる。

言葉をコミュニケーションの手段として捉えるなら英語に敵う言語は他にないだろう。さすが言語の王。キングオブ言語。

 

日本語なんてのは、陰気だ。コミュニケーションに全く向いていない。かなりオタク的だ。僕たちがうまく喋れないのは日本語の性質によるものなんじゃないだろうか?

その真価はやはり、「書く」ことにあるように思う。

腰を落ち着かせて、珈琲を入れて文章に向かい合うのなら確かに、これほど繊細で美しい言語はないのかもしれない。小説や詩の一節に感動出来るのは、素直に先人の作った日本語という芸術品に感謝すら覚える。

 

英語にも美しい言葉はある。ドニー・ダーコという映画には、国語教師のセリフに

「無数にある英単語の組み合わせで史上最も美しいものが"cellar door"よ」

というものが出てくる。理由は分からないが、日本語を話すものがそれに美しさを感じることとまったく同じことなのではないだろうか。

日本語が美しいことは他言語が美しくない理由にはならない。全ての言葉が等しく、誰かにとって愛すべきパーソナリティでもあるのだ。

 

 

日本語はとにかく語数が多い。美しさを表す言葉も多い反面、クソみたいな語だって数え切れないほどあるのだ。

次回のブログは「クソ日本語講座」に決まりだな。お楽しみに。