書くということ

 

前回に引き続き、書くことについて少し話したい。

はっきり言ってかなりくどい。正直日曜のお休みタイムに書くものではない。

ラーメンはこってりしか勝たん!という人だけ、読み進めることを推奨します。

 

 

表現できる場があるというのは恵まれている。

少なくともTwitterなんかのSNSのおかげで、誰しもがうすらぼんやり持っていた承認欲求を満たすには困らない時代になった。

SNSの無い時代を想像してみたけど、なんだか寂しくて恐ろしくてやめてしまった。「分かってもらいたかった」とか言って犯罪でも犯していたかもしれない。


生きるとは考えることでもある。身体のもっと奥、精神の内側から溢れ出すなにかを私たちは必死に表現しようとする。

例えばそれが小説や絵でも、歌でもダンスでもコスプレでもファッションでも、人は何かを表現することで初めて自分自身が何者なのかを定義するのだ。表現とはその人のもつ「魂のかたち」なのである。


承認欲求というのは、生き物なら自然に備わっているものなんじゃないだろうか。

怒りを感じたらそっぽを向くし、悲しみを感じたら声を上げて泣く。実に自然に私たちは感情を表現している。

それに気付いてもらえなければ透明なのと同じだ。怒っても泣いても誰も気にしない世の中では人との繋がりは無くなり、社会は築けず、私たちはゾンビのように徘徊することだろう。犬や猫と戯れることも出来なくなる(悪夢だ)。

 

好きな食べ物の話をしたい。

りんご、ラーメン、あんぱん。これらをなぜ好きなのか人に伝える時、私ははじめて自分の感情に向き合う。「りんごは、歯応えが良くて甘いし……昔から好きだったし……ラーメンは美味い、と思ってる……」

ぐだ……ぐだ……そもそも人の感情なんてものは流動的でその場限りで不定形なのだ。それをゆっくりと押し固めて、成形し、自分らしいものを作り上げていく。これが死ぬまで続いていく。

自分がどんな人間なのか知るための一歩は、自らを信じる(=演じる)ことから始まるのだ。人はなりたい自分にしか成れないのだから。

そう考えると「自分らしく在る」ことの全てが表現であると言えるだろう。

 

 


表現できる場があるというのは恵まれている。これは決して大袈裟な言葉ではない。

残念ながらこんな時代にもなってあなたを笑ったり、中傷したり、蔑ろにする奴らはいる。仕方がなくて、彼らは彼らでそうやってアイデンティティを保とうとしているのだ。

だけど、安心してほしい。あなたが何を話そうが、何を描こうが何をやろうが、私は必ず肯定してみせる。外見や内面のもっと奥深くで、あなたがあなたらしく在ろうとする限り私はオーディエンスとして拍手を贈りたい。

私が表現として書き続けるのはそれを伝えたいからだ。のび太ドラえもんがいたように、トムソーヤにハックルベリーフィンがいたように、誰かの理解者であり続けたい。

だから書く。普段話さないことを、言いかけてやめたことを、かき消した妄想や語られなかった真実なんかを。

誰かが自分らしくいるために、私は私らしくいよう。

拍手はまだ鳴り止まない。