金曜の夜だしな。

 

またふわっと設定を書いて小説でも書いた気になるやつ、するか。

 

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最近はよく本を読んでいる。といっても学生の頃みたいに多読ではなくて、キッチンの換気扇下にパイプ椅子を置いて、夜な夜な小さな明かりを灯して読むという有り様だ。

専らリハビリみたいに短編集ばかり読んでいる。50ページにも満たない物語が始まっては終わり、読み切ったという達成感、問題が解決したりしなかったりする尾を引く読後感、それに物語の世界に浸るのにちょうどいい安心感がある。

長編の小説ともなると、あちらの世界とこちらの世界との魂の行き来に疲れてしまうのだ。相応の、心の準備ってものが要る。

本を読む時、内容の面白さ如何よりどういう気持ちで、なぜそれを書いたのかに思いを馳せてしまう。そういう国語のテストみたいなことで思い悩むのが至福の時間なのだ。

そもそも何を好きかより、なぜ好きかって話をさあ、たくさんしたいんだよな僕は。

 

一度でも小説を書き上げた事のある人を本当に尊敬する。本を読み終わるのとは段違いの充足感があることだろう。きっと歴戦の戦士のような面構えをしているはずだ。鏡を見てください。どうですか?

僕も昔、何度か物語を書こうとしたことがある。

旅客機が墜落した島で、虫を信仰する民族と出会う話。レギュラーになれなかった落ちこぼれたちが逆応援団を結成し、野球部を日本最弱に導く話。亡くなった母猫が、子との再会=子の死というジレンマを抱えながらも墓で待ち続ける話。

どれもがショートストーリーにも満たない数ページで終わるか、結末に差し掛かると途端につまらなく思えて書くのをやめてしまった。

つまりはまあ、長文を書く才能が無かった。「書かなければならない」みたいな使命感がなかった。幸運なことに、短い文章を書くことが出来たのでなんとかこれまでやってこれたのだけど。

 

それでも、というかやはり、物語を考えるのは楽しい。空想する。自分のかたちをした魂が文字になるところを想像する。画面に打ち込んだそれが近くの電線を伝い、都市を横切っていく。最新のキャラクターがラッピングされた電車や色褪せた屋上看板を縫って進む。途中、耳に傷のある三毛猫がこちらを目で追う。飛んでいる鳥を追い越してぐんぐん進む。山の上の電波塔へ辿り着くと住んでいる街が見渡せる。遠くからだと止まってるようにも見える市内線のその奥で、夕陽が海に沈んでいくのが見える。そこで僕はようやく顔を上げて、最初の一行をあなたに話し始めるのだ。

 

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今から物語を書くならどんな話にしようかな。今、たった今考えたものがいい。アイデアは鮮度が大事だ。

 

例えば、翼を持つ少女が飛び降りる話。書き出しは「私はいつものように柵の向こう側に立ち、いつもと変わらず行き交う人々を見下ろして、普段通りに一歩前へと踏み外した。」という感じだな。淡々と少女による自白によって展開していく。11階、子供の頃の記憶。9階、親の記憶。7階、翼のこと。5階、抱える秘密。3階、自分のこと。1階──

翼の本当の意味も、物語の結末も書かなくていい。人は、空白にこそ最も素晴らしい解釈を見出すからね。

 

例えば、若い詐欺師が、宗教団体で偶像として囲われている娘を嘘八百で助け出す話。詐欺師と怪しい宗教団体の騙し合いが繰り広げられる。詐欺師に味方はおらず、娘は純粋ゆえに宗教にどっぷりとハマっている。その身一つで、口一つで、惚れた女を本気で騙せ!

 

面白そうだ。「面白そう」なものならいくつも思いつく。それを「面白い」ものにする、形を与えるのが作家の役目だ。どんな登場人物の感情も、声も、立ち姿や好みや生い立ちさえも、好きなように書けばいい。

あなたが何を、どんな風に愛おしく思っているのか、そんなことを考えていたい。