個人的な意見

 

金曜の夜だしな、という理由だけで文章を書いている。なんだかんだブログは続いていて、たまに見返すとそれなりに面白くて安心する。

私は口下手なので、思うように伝えられない事が何度もある。言葉なんてすぐには浮かばない。そんな時自分の文章を読み返していると、言いたかったことが思い出せる気がするのだ。

こうして文章を書くときは、いつもラブレターをしたためるような気持ちでいる。言葉に詰まりながら、手を震わせながら、祈りながら、普段は言えないような言葉を選んで、私は私であろうとするのだね。

 

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最近なんでもかんでもSNSで情報を得られるようになり、つまらん世の中になったのだろうなと思う。SNSの発信力、訴求力ってものすごくて、誰もが革命家のように振る舞えるし、声の大きい人は嫌でも目に入ってきて、力のないものは自らの無力を痛感したりする。

拡散して、炎上し、傷を舐め合い、それをまた叩く。拡散して、批判して、傷つけ合い、それをまた叩く。世の中どんどん平らで薄っぺらい更地になってしまいやしませんか?「個人的な意見」が個人的な範囲に収まっている所を、私は見たことがないよ。

「こうでなければいけない」正しさみたいなものが、SNSの力によって明確に可視化されてきた。主観と客観のバランスが、いま大きく世界という客観に傾いている。歪な世の中だ。たったこの世にひとつしかない意見でも、間違っているなんて事は有り得ないのに。

大きく見える意見が正しいとか、より社会的だとか役に立つとか道徳的だとか、そんな事はどうだっていい。スイミーを読んだことないのか? 社会っていう「個人的な意見」の塊が大きな怪物となって、ほかの小さく弱い魚を脅かしてどうする。

僕らは本来、誰もが間違えようもないほど正しくて、正しようもないほど間違っているんだよ。

 

自立してなくたって依存してたってメンヘラだって働いてなくたって夢がなくたって友達がいなくたって結婚してなくたって死にたくたって嫌いな人がいたって辛くたっていいんだ。

それでいいんだよ。