くそでかアイデンティティ

 

 

某創作サイトが炎上しましたね。

例によって時代錯誤(で片付けるには余りにも悪質)な社員のセクハラ発言・行為によるものらしいですがその批判は別の機会に。

今回はそれによる二次被害について。

この件で創作、二次創作絵なんかが次々と削除され、神絵師たちの退会も相次ぎました。それに対して賛否両論が巻き起こるネットのいつもの光景。正直、理解は出来ても共感は全く出来ない。

 

いつも不思議に思う。

役員の問題発言で「もう牛丼食べません! 」と宣う人たち、不祥事があるとすぐに不買運動をする人たち、役者のスキャンダルがあると作品自体が世に出ることもなくなったりする。あなたたちは、我々は、一体なんの被害者なんだ?

トップレスでの抗議運動、公道を占拠するほどのデモ行進。それは、誰の怒りなんだ?

 

なんの自慢にもならないが私は(盲導犬協会以外の)寄付をしたことがない。

別に薄情だとは思わない。私はただ私の痛みについてのみ悲しみ、私の怒りにのみ従って行動する。とてもじゃないけど世界のどこかで誰かが傷つくことまで庇いきれないし、ただごく狭い世界の、手の届く範囲を大切にするだけで精一杯だ。

だが先に述べた彼らは違う。社会の痛みは彼らの痛みであり、社会の怒りは彼らの怒りなのだ。人間は社会的動物なのだと、彼らを見ると痛感する。彼らのような存在にとって、社会とはアイデンティティであり、彼ら自身なのだ。

 

オリンピックなんかでもそうだね。同じ国というだけで自分のことのように語り、喜び、分かち合う。同時に失敗や責任は一切背負わないあの身軽さは、社会性というアイデンティティを築き上げる過程で不要なものを排除しているからなのだな。

オリンピックがなんだか苦手な人、よく「個性的」って言われませんか?

 

彼らが社会と自己との線引きが上手なのか、あるいは下手なのかは分からない。興味もない。

彼らの痛みは彼らのものだから。それが途方もなく大きな社会といううねりが持つ、ほんの小さな傷だったとしても。

 

幸せだろうか。楽なんだろうか。社会のために慟哭し、怒り、生きていくことは。

私にはどうも、彼らが選択や自由を放棄しているように見えてならない。

 

 

p.s.

もちろん社会が抱えるジェンダーや戦争、権利の問題へ反対の意思を掲げるのは大切で素晴らしい事だ。社会を変える事が出来るのは、そうした社会的な人間だろうと思う。

それはそれ。これはこれ。