怒りサンセット

 

怒りでしか感情を表現できない人がいる。

職場のOさんは事あるごとに他人に怒鳴り散らしていて、それが原因で何人も新人の子がやめてしまった。そのせいでいつも上司に怒られている。怒りのスパイラルだ。

Oさんはもちろんみんなに嫌われている。同僚も事務のおばちゃんも優しい上司も、みんなOさんのことが嫌いだ。

私は、可哀想だといつも思ってしまう。ただたまたま「怒りっぽい」というだけで、こんなに嫌われるんだ。理不尽とさえ思う。

同じじゃないか。僕がこうして文章を書き自分の感情を形にするのも、誰かが絵を描いたり踊ったり、スポーツをしたりするのも。Oさんはたまたま、怒りという手段しか持ち合わせていなかっただけなのだ。

 

 

「多様性」とかいう、残酷な言葉がありますね。

あれは「マジョリティの細分化」に過ぎない。誰か(それは神様だったり偉い人だったり、僕らだったりする)が許可したものだけが多様性を名乗ることが出来る。馬鹿みたいだけどそれが現実だ。不都合で価値のないマイノリティはその存在すら許されない。

「多様性」とは所詮、許されるか許されないかの二分化の上に成り立つ幻想に過ぎないのだ。

いつ聞いても嫌な言葉だ。中身の腐ったアップルパイみたいに、外面だけがいい。

 

「多様な人がいる」という事実を受け入れられる人は少ない。それは全てへの関心であり、同時に全くの無関心でもある。理解出来ない事を、分かりませんでは済ませられないのだ。ずいぶんと窮屈に見える。

この多様な社会で、Oさんはこれからも他人を怒鳴り続け、みんなはOさんを嫌い続け、僕は憐れみ続けるのだろう。

僕たちは、みんなそういう人間だから。