私を占ってください

 

先日バイクの卒業試験があったのだけど、ここだけの話、合格するのは分かっていた。出来レースだったと言っていい。

なぜなら天秤座が1位だったから。

 

 

私は特に熱狂的に占いを信じているわけでもなければ、本格的に占ってもらったこともない。

それでも朝のニュース番組で占いが始まれば見入ってしまうし、正月にはおみくじだって引く。思うに我々には、占いを信じる本能というものが存在するのではなかろうか。

古くから人類は占いと共に生きてきた。亀の甲や鹿の骨で吉兆を導き出したのだ。変わったといえば、動物を思いやる気持ちくらいのものだろう。

未来について思いを馳せられるのは人間だけだという。明日何しよう、どんな服を着よう、どんな素晴らしい未来が私たちを待っているのだろう。

誰しもそんな想像の世界までネガティブに考えたくはない。信じたいのだ。みんな自分の幸せな明日を。

信じる心は愚かしくも美しい。占いは幸福への道筋を、ほんの少し照らしてくれている。

 

なにも必ず信じる必要はない。むしろ信じない事も占いの意義であるように思う。たとえ1位でも事故に遭わないように注意して歩道を渡るべきだし、同様に12位でも必ず開運のメッセージが添えられる。「はい、あなたは最悪ですもう終わり。背後に気をつけて」では救われない。

二年後の婚期も四年後の転機も、必要のない者は信じなければよいのだ。そして必要なものだけが、自身の行動の支えとして耳を傾ければよい。

 

占いの目的ってつまり、「安心」だな。お守りなのだ。ちょっと失敗したくらいでめげないように私たちを守ってくれる。

占いのせいで不幸になった人なんて聞いたことがない。信心とは救いだから。信じている限りは、裏切られることなどないのだ。

 

 

あなたもどっこいなんだかんだで、きっと幸せになるでしょう。

これは占いでもなんでもないのだけど、不明瞭な根拠っていうのはたくさんあればあるほどいいんだ。

この言葉がいつか、あなたを不幸から守ってくれたらいいと思う。