20代って

 

20代が終わった。姉の。

 

恋愛体質で昔から男を取っ替え引っ替えしていたもののどれも長続きしない姉は、いつも焦ったように恋をしていた。そんな人なので20代の終わりに思うところがあるのではと危惧していたたが、本人は割とあっけらかんとしていて、いつものように軽薄そうな男とデートに繰り出していた。

いつか落ち着けるといいね。

 

20代の終わりって、どう感じるかは人それぞれとして、大げさに悲しむ事はない。20代だからやらなければならないことなんてないし、30代だからしてはいけない、なんて事柄も存在しない。それぞれの尺度で生きているはずなのに年齢による枠組みを決めつけられ、世間からそこに押し込められるように我慢して生きる必要なんて全くないのだ。

好きなことをする。いつの時代も、これほど難しく贅沢なことは他にない。

 

「20代で得た知見」という本がある。

自己啓発本みたいなタイトルだが、「真夜中乙女戦争」で知られるF氏によるエッセイ、対談集みたいなもので、彼がこれまで言葉を交わした善人悪人極悪人、セレブに病人一切を問わず、様々な人から得た気付きがまとめられている。

要点だけがまとめられたノートの様なもので、つまりはとてつもなく、濃い。どのページを開いても人生を悟った(悟ってしまった)大人たちによる知見が、まるで辞世の句のように綴られている。

その内容はとても表舞台では語ることのできない、より現実的で陰惨で露骨で美しいものばかりで、とてもじゃないけど読書感想文やドーナツと珈琲でリラックスタイム♪ には向いていない(ここでいう美しさとは人間的であるという意味のように思う)。

 

目次が版元から公開されていた。

 

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ぞくぞくするな。エモーショナルの皮を被った恐ろしい言葉が並べられている。

 

いくつか引用したい。

 

「20代の人生は、忘れがたい断片にいくつ出会い、心を動かされたかで決まる」

「等身大で嘘を吐かず、隠れず、隠さず、堂々と暴れる。好き嫌い、はっきりさせる。それが20代の大前提です。(中略)最も痛々しい思い出が、それでも一番美しいのです」

「最高の20代とは、最低の20代のことである」

「素直でなくてよい、素直でないもの同士は大変仲良くなる」 

「大人げないことをたくさんするのが、大人の醍醐味じゃないですか」

 

 

この本を読んで「誰にでも同じような悩みはある」と思うと同時に「そんなわけがあるか」と強く思い直す。確かに悩みを抱えた人間は多いだろう、想像よりずっと多いかもしれない、それでも言語化しなければならないほどの悩みを抱えながら生きている人間なんて社会の中では少数派だ。所詮は理解されない生き物として、自分のことは自分で慰めるしかない。

「参考になった」なんて感想を寄せるのはよほどの能天気か幸せな人間だけだ。私たちは常に追いやられている。

読書の悪いところはこうやって読者に寄り添いすぎることにある。親友でもできた気になる。優しい顔して共感してきて、その実、現実はちっとも変わりはしない。期待しても本の向こうにいる人とは、出会うことなんてできないのに。(本当は会ってもよい。SNSで気になった人と会えばよい。結婚してもよい)

 

世間はとことん、言葉にできないことには不寛容だ。それが大人だというのならなりたくはない。

どんな理不尽にも理由があって、そういう矛盾を愛して生きていきたい。だからこそ、僕らはいつまでも希望の話なんかをしてしまうのだ。

 

 

 

 

出典「20代で得た知見」

F 著

静かな場所で

 

ただ静かに、美しく生きる。

それだけのことがなぜこれほどまでに難しいのか。

 

海へ散歩に行った。最近は週に一回のペースなので通っているみたいになってきた。

ここは大して都会でもないけれど、少し離れることで喧騒を忘れてようやく息がつける。波の音、水鳥の鳴く声、浜辺に佇む人。遠くには車が絶え間なく行き交っているのが見える。

海を眺めているとだんだんと時間の流れが遅くなってきて、やがて自分の生きる速度と重なり合う。息を吸い込むと呼吸の仕方を忘れていたみたいに、身体中に新鮮な空気が行き渡っていくのが分かる。

ああ、人間とか、苦手なんだろうな。

そんな事を考えるのは恐ろしいので、あまり考えないようにするに尽きるのだけど。

 

詩集を頂いたのでお供に持って行った。販売はされてないので大切にしたい。

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美しい詩だ。長々と感想と送ると、これまた長々と感謝の言葉が返ってきたので、その人のことをもっと好きになった。

 

ただ静かに、美しく生きたい。

本当は小高い丘の上に一軒の家を建てて、毎朝太陽の光や鳥の囀りで目を覚ましたい。もしくは渚という言葉の似合う港町で日銭を稼ぎながら、海を眺めて暮らすのだ。

でも文明が、社会が、常識が、人間関係が、プライドが、経験が、不安が、それを許さない。

自由のもっともっと外には不自由が広がっていて、宇宙みたいに今も広がり続けている。僕たちは生きているだけで、生まれただけで、たくさんの事を諦めなければならない。見て見ぬふりをしているのか本当に気付いていないのか分からないけれど、みんなはこんな困難をどう隠し持って生きているのだろう。

迫る隕石から目を背けるみたいに、僕はずっと街なかで裸になって叫び出したいのを我慢しています。

 

電車に運ばれて働きにゆく。お金を貰う。服を着る。食べ物を食べる。慌ただしく過ぎるこんな毎日を日常と呼びたくはない。

太陽の光で目を覚まして、花に水を遣り、木々に季節の移り変わりを感じて、海を眺め、飛ぶ鳥に目を細めて、詩を読み、文章を書き、美味い珈琲を啜り、温かい夕飯を食べる。ただそういう暮らしがしたいだけだ。

静かに、美しく生きる。

それだけがこうも。

こうも難しい。

 

 

INFPの国

 

 

性格診断で「MBTI」というものがあって、様々な質問に答えることで16のタイプに分けてくれる。

これがおもしろくて、忘れた頃に何度やっても同じ結果になるのでWEB上によくある心理テストの類の中では比較的現実にそぐう診断なのではないだろうか。

みんなもやってみてね。

 

そう、何度やってもINFPになる。

 

何度やっても……

 

 

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…………

 

 

INFPだけの国って3日で滅亡するらしい

 

 

就活生のとき適職診断したら「残念ながら向いている職業はありませんでした!」と出た

 

 

他のサイトでは「宗教家です」と言われた

 

 

真面目さや優しさみたいなもの、社会じゃ価値ないらしい

 

 

にゃーん

 

 

 

 

 

価値観の違いで解散しよう

 

会話が通じる、ってかなりありがたい。

同じ人間同士が同じ言葉を使っていても会話が通じないなんてことはざらで、向こうからしたらこちらもそう思われているのだからおもしろくない。価値観、いわば言葉の重みは会話におけるたったひとつの「ルール」であり、約束事なのだ。

空手家と水泳選手は競わないし、ラケットや鉄球じゃキャッチボールは成り立たない。

例えばセックスという単語一つ取っても忌み語のように扱ったり馬鹿にする人がいれば、崇高な魂の会話だと言う人もいる。この二人は同じ言葉を使ってはいても片方は聖書を、片方はエロ本を手に持って意見を戦わせるわけだ。こんなに無意味なことってない。

そう、会話とは一歩間違えれば限りなく無益で、途方もなく面白くないものなのだ。

 

会話が通じる、ってありがたい。むしろ通じないことのほうが多い。

会話が通じない時、わたしたちはどうするべきなのか? こっちが合わせる? 相手が合わせるのを待つ? 相手の生い立ちや人生に思いを巡らせて涙したり、自分の価値観を疑って国語辞典を引いてみたり、神に祈ったりする?

簡単なことだ。

バンドなら解散しなさい。恋人なら別れなさい。知人なら見限りなさい。

友人なら話し合いなさい。

自分ならそうして欲しい。友人の愚痴を聞いて「くだらない」なんて思いたくないし、ハマっている趣味に「つまらない」なんて言ってほしくない。料理を食べれば美味しい、服を指差せばかわいい、遊べばうれしいとただ感じていたい。

その笑った顔に、楽しいという感情以外の翳りを感じたくはないのだ。

 

もっともっと解散しよう。残ったものを大事にしよう。冗談を言ったら笑う、みたいな自然な流れの中にいよう。

同じアニメを見たり、同じ映画で泣く必要もない。ただ同じルールの中で、あなたと会話がしたい。

 

 

0818

 

きのう職場と目と鼻の先のコンビニで強盗傷害事件があって、犯人はいまだ逃走中なのだけど、そんなのは些末なことだ。

わらわらと群がる警察官を道路脇からうかがう野球帽の少年、写真を撮るその手には獲物に狙いを定めた鷹のように雄々しく広げられたガラケーがあった。

ガラケーて。そんな日焼けした腕で。お母さんが心配するから早く帰りなさい。

でも好きなんだよなこういうの。もちろんガラケーのスタイリッシュで顔に沿ったフォルム、艶めく黒のボディ、下品に光る謎の着信ライト全部好きなんだけど、それよりも何よりも少年とガラケーの組み合わせにグッと来た。

僕らの時代の小学生はケータイなんて持ってなかったし、今の子供たちならスマホを持たせてもらっている。そこにきて真っ赤な野球帽を被った少年が、パパラッチよろしく警察官をガラケー横持ちで撮っている様は、絵画のように印象深く、徹夜明けの空気のように新鮮だった。

ああ、好きだ。

電車で隣に座った真っ白なワンピースを着たお姉さんが、スマホ横持ちで本気でゲームしてたから好きだ。

食堂で一人でモンハンしてる女がいる、っていう友達の笑い話、そういう子、好きだ。

手作りパンコーナーで甘いパンを買って帰る疲れた顔のサラリーマンとか、改札に引っかかって恥ずかしそうな高校生とか、インフォメーションにいる困ってる外国人とか、みんな好きだ。

 

こういう気持ちなんていうのかな、恋? でもそう、ときめきに近いものがたしかにある。

それは例えば友人が母親の前でだけ見せる顔だとか、新人のレジ打ちバイトがミスをした時とか、本人の無意識下で現れる素の姿、あるいは人間味の部分が、ある瞬間とてつもなく愛おしくてたまらなくなる。家ではださいセーター着てたり、Twitterで愚痴をこぼしちゃったり、予想外の返事が笑えたり、そういう当の本人も気付いてないような部分を知って、感じて、もっともっとひとのことを好きになりたい。

 

ひとを知るというのは、好きになるというのは、そういうことだから。

 

 

何かするのは「選ばれた人」だと思ってた

 

 

自信がある、というだけで人生の大抵の事は上手くいく。

人間関係、恋愛、就活、創作、商売、etc。あらゆることが「自信がある人」を中心に形成されている。

逆に言うと、自信がない、というだけであらゆる物事は上手くいかない。自信がない人には何をやらせてもだめ、というより何もやらない。出来ない。出来る気がしない。

自信が無いと自己肯定感が低くなってきて「自分なんかが旨いもの食ってちゃ駄目だ……」「お洒落しちゃだめだ……」「遊んでちゃ駄目だ……」になる。ほんとになるんだよ。

そんなわけないだろ。

 

自分はこれまで「依存」によって自信を得ていた部分が大きい。親への依存、恋人への依存、友人への依存、ネットへの依存。自己肯定感とかいう最悪の概念のために、自分を傷つけるあらゆる敵を遠ざけて、満たされるためだけに色んなものを消費してきた。そこに自分自身の成長はなくて、ただ許されているという安心感、ぬるま湯のような閉塞感に緩やかに窒息していったのだと思う。その感覚をまだ払拭することは出来ていないけれど、そんなやるせない自分の姿に嫌気がさしてようやくスタートラインに立てている。立っているはずだ。

 

自信がある人は「やる」。ただその一点のみが、私たちと彼らとを大きく隔てている気にさせてきた。

でも本当はもっと単純だって知っている。たくさん考えたからもう分かってる。自信が無くてもやればいいのだ。「選んだ事」が一番正しい。美しい。好きなことをやる、それだけが川の流れのように自然な振る舞いであるはずなのだ。

バンドに憧れてギターを弾くのも、ビンテージ・ショップで高い服を買うのも、格好いいからってバイクに乗るのもなにも特別である必要はない。やりたい事をみんなやっていただけだ。自由って、本当に目に見えないんだよな。

我慢をやめたい。わがままを言ってみたい。自分の好きに生きてみたい。

私も選ぶ人間でありたい。

 

 

 

刈り上げ君とチャーハン

 

 

その日は素晴らしく最高な一日になるはずだった。

めずらしく早起きして、朝から喫茶店で美味い珈琲を啜り、ふたつもひまわり畑を見かけて、昼にはホラーと懐かしいワンピースの映画を観た。久しぶりに満たされている、と感じた。

夜には髪切り屋さんでイケてる髪型にしてもらい、そのまま外食をする予定を組んだ。すごく気分が良くて、これ以上のハッピーってなかなか思い付かない。

夏の青空のように晴れやかな気持ちで美容室へと足を運ぶ。

 

そして現在なんというか、後頭部に「刈り上げ」がある。つまりはなんというか、髪がない。ちゃんと美容師さんにいつもの写真を見せて、口頭でも説明したのに。襟足から繋げるような感じでって。

普段の髪型はいわゆるツーブロックなのだけれど、あまりツーブロックの人間というのが好きではない。ツーブロックという「機能美」を愛しているといっていい。そのためサイドの刈り上げは上から髪を被せるようにして目立たなくしているし、後頭部はグラデーションになるようにお願いしていた。ツーブロックをしている人間から放たれる独特のオーラや威圧感みたいなものはなるべく少ない方がいい。

それがなんだ。馬鹿みたいに後ろを刈り上げまくってくれやがって。刈り上げ君、という小学生みたいなワードが頭に浮かぶ。

ワンテンポ置いて、ありがとうございます、と言った。しばらく通っているところだし、切っちゃったものはしょうがない。失ったものは戻ってはこないのだ。担当の美容師さんは、最後に名刺を渡してこなかった。

 

重くなった足取りで夕食へと向かう。

急に炒飯が(チャーハンではなくて)食べたくなって、中華屋へ入るとすぐさま炒飯の大盛りを頼んだ。

炒飯とチャーハンは全くの別物だと言っていい。自炊で初めのころ何度も挑んだメニューだが、出来上がったのはいつも「チャーハン」だった。炒めたはずの米は炊き上がりの時よりもなぜかもっちゃりと粘り気を帯びていて、塩コショウを効かせただけの深みのない味付け、味気のない肉、余り物の野菜が散りばめられている。どんな中華の鉄人だって平べったいフライパンとIHコンロでは、あのパラパラの、外で出されるような「炒飯」を作ることは不可能だと思ったものだ。

だから中華屋へ来た。自分でわざわざもっちゃりとしたチャーハンを作るなんて、炒飯を食べたい人間がすることではない。

「お待たせしました」と声がかかる。

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嫌な予感がした。

ひと目でまず形が悪い。半球形によそわれていない米は、水気を帯びてぬらぬらと光を反射している。おまけに香味野菜であるネギも2粒くらいしか見えない。そして仕上げに、家で作ったあの、「チャーハン」の香りがした。

味はもう、何ていうか言っちゃ悪いけど決して良くはなかった。ご飯を食べてこんなに悲しい気持ちになるのは生まれて初めてのことだった。炒飯を食べたい欲が満たされないまま、黙って平らげる。

大盛りだったことが余計に僕を悲しくさせた。

 

 

なんなんだ。一体何が起こったんだろう。ついさっきまで、良い一日だったんだ。

出来ることならもう一度今日を初めからやり直したい。美味い珈琲を啜り、ひまわり畑をふたつ見て、ホラーとワンピースの映画を鑑賞し、違う美容室と中華屋へ行くのだ。そうすれば、チャーハンへの恨みを抱きながら夜の街をさまよう刈り上げ君になることもなかった。

 

そうブログの締めくくりを書き終え、例の中華屋を後にしようとしたところで──

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チャーハンの看板

 

ああ。

なるほどね。

簡単なことだ。答えはいつだって、最初から目の前に用意されているのに。