価値観の違いで解散しよう

 

会話が通じる、ってかなりありがたい。

同じ人間同士が同じ言葉を使っていても会話が通じないなんてことはざらで、向こうからしたらこちらもそう思われているのだからおもしろくない。価値観、いわば言葉の重みは会話におけるたったひとつの「ルール」であり、約束事なのだ。

空手家と水泳選手は競わないし、ラケットや鉄球じゃキャッチボールは成り立たない。

例えばセックスという単語一つ取っても忌み語のように扱ったり馬鹿にする人がいれば、崇高な魂の会話だと言う人もいる。この二人は同じ言葉を使ってはいても片方は聖書を、片方はエロ本を手に持って意見を戦わせるわけだ。こんなに無意味なことってない。

そう、会話とは一歩間違えれば限りなく無益で、途方もなく面白くないものなのだ。

 

会話が通じる、ってありがたい。むしろ通じないことのほうが多い。

会話が通じない時、わたしたちはどうするべきなのか? こっちが合わせる? 相手が合わせるのを待つ? 相手の生い立ちや人生に思いを巡らせて涙したり、自分の価値観を疑って国語辞典を引いてみたり、神に祈ったりする?

簡単なことだ。

バンドなら解散しなさい。恋人なら別れなさい。知人なら見限りなさい。

友人なら話し合いなさい。

自分ならそうして欲しい。友人の愚痴を聞いて「くだらない」なんて思いたくないし、ハマっている趣味に「つまらない」なんて言ってほしくない。料理を食べれば美味しい、服を指差せばかわいい、遊べばうれしいとただ感じていたい。

その笑った顔に、楽しいという感情以外の翳りを感じたくはないのだ。

 

もっともっと解散しよう。残ったものを大事にしよう。冗談を言ったら笑う、みたいな自然な流れの中にいよう。

同じアニメを見たり、同じ映画で泣く必要もない。ただ同じルールの中で、あなたと会話がしたい。