意識の流れ-文章の練習をしよう

 

意識の流れという文章的技法があって、「人間の意識は常に流動的に動き続けている」ことを表現するというものなんだけど、つまりは行動に表れない心理的動きの描写である。

小説には必須だと言えるし、今の人たちは自然と使っているのかもしれないけれど、今回は改めて意識して適当に書いていきたい。私はこれを応用して詩を書いたりするが、文章として扱うのは初めてです。

 

ではスタート

 

 

バスに乗っている。汚れた窓に自分が映り、その向こうを冬らしく枯れた木々が粛々と並んでいる。隣の座席には若い男性が座り、厚着なので袖が触れ合ってしまう。その妙な居心地の悪さと揺れるバスの心地よさがバランスを保ち、まっすぐと私を故郷へと連れて行く。

家で淹れてきた珈琲は熱くて飲めそうにない。仕方なく取り出したチョコレートを足元のバッグに戻す。シートベルトが食い込む。バスで真面目にシートベルトを付けている人なんてどれだけいるのだろう。このバスが事故に遭えばそれがそのまま生存率になるというのに。そんなことは本当はどうでもいいのだけど。生が続いていく。

リュックサックに収まるだけの荷物で帰っている。下着数枚、靴下、あとは大体実家にあるくたびれた服で事足りる。こんなんじゃ全然伝えられないな、と思う。私が今どんな生活をしてどんな風に変わってどんな事を考えているのか、親に伝える術を私は昔から持っていない。

トンネル。薄暗くて陰険だが出口がある。ゴールも分からないまま歩かされている今の方がよっぽど恐ろしい。残響。耳の中には色んな言葉がある。脳に繋がっていて不確かな音で再生されている。イヤホンで穴を塞ぐ。漏れないように、夥しい量の過去や感情が、私から流れ出てしまわないように。

文章なんて書けば書くほど真実めいて、才能のない自分が浮き彫りになる。誰かは必ず言う、あなたはとってもすごいのよ。Twitterに愚痴なんかを書きながら。人は分かり合えないって前提が君を拒んで、また寂しくなるのだね。私とあなたは違う。嘘と大袈裟なエピソードくらい違う。太陽が差しても月が出ても、海が枯れて山が崩れても僕らは独りきりだ。

現実。汚れた窓ガラスに自分が映る。すぐに忘れるはずの独白が文字としてそこにある。あぁ、こんな人間なのだなぁ……

没頭して書く、その少しの間だけなんでも分かった気になって、世界に一人きりみたいだと思う。地面に突き刺さって、バスは私を置き去りにしてゆく。イヤホンから音楽が流れている。行きたい場所も会いたい人たちもいて、理想郷よりよっぽど良い世界で私だけがいつまでも地面に突き刺さっている。スマホに文字を打ち込んでは独白未満の文章で形骸化した感情に綿を詰める。後悔や言い逃したセリフで海が出来る。私たちはもっと悲しむ必要があった。

珈琲がぬるくなっている。時は過ぎるものだから。得るものより失うものの方がずっとずっと多くなって、私もいつか消え去るのだ。残響。トンネルで電波が途切れる。こんな風に突然、居なくなる。

雪が音も無く溶け出して、また平穏な日常へと戻っていく。どうか明日も、花が咲きますように……雲が流れますように……バスが走りますように……

それぞれの日々が平穏でありますように、どうか。

 

 

終わり!

こんな感じで淀みなく、リズムよく書く。文章を書く人にはよい練習になると思う。

自分の思考や語彙の偏りが分かって気付くことも多い。これ自体が作品にも活かせるし。

たまにはぜひ、どうでしょう。